October 24, 2006

甦れ、三つ子の魂

二つのソフトボールチームに所属している。一つは現場のチーム(エンジェルス=こちらがメイン)で、もう一つは地元・四條畷のチーム。地元の方は、たまたま知り合った人がソフトボールをやっていて、助っ人に誘われた縁で、エンジェルスの予定とバッティングしない時にだけ行っている。
地元での試合は、自宅からチャリで5分くらいのところにある中学校のグラウンドが試合会場になることが多い。日曜日だが、ブラスバンド部の楽器練習の音が聴こえ、グラウンド脇のテニスコートではテニス部(軟庭)が練習をしている。一方、エンジェルスの方は、週末に試合や練習をするのは当然として、平日の夜にも、現場近くの、やはり中学校のグラウンドを借りて、ナイターで練習をしている。平日の夜、7時前くらいに学校に行くと、ほとんど人気(ひとけ)がない。僕が中学生の頃は大抵8時頃まで練習をしていたものだけど、最近は引けが早いのかなあ。

少なく見積もっても、年間50日以上は試合か練習をしていることになる。普通の社会人としては多い方だろう。でも、今日は「みなさん、もっと運動しましょう」というのがテーマではないのだな。

先日、夜の練習に初めて参加してくれた若いお兄さんがいた。「とりあえずキャッチボールしよか」と早速声をかける僕。「おっ、結構エエ球放るやん」などとおだてながらコミュニケーションを取る。キャッチボールは、コミュニケーションツールとして最高だとあらためて感じる瞬間だ。特に僕などは、お笑いはスベるし、話をすれば議論になるし。。。まあ、それはいい。ここで大事なことは、キャッチボールをしながら、彼が「あー、ガッコーって何年ぶりやろう」とつぶやいたのを、僕は聞き逃さなかったことだ。

そうなんや。毎週のようにガッコーのグラウンドに来ていると新鮮味もないけれども、久しぶりに来ると、懐かしいものなんやなあ。グラウンドに立つ。バックネットがある。サッカーゴールもある。グラウンド脇にはテニスコートがあり、長屋のような部室が並んでいる。そして、もちろん校舎もデンと建っている。

報道によれば、安倍さん肝煎りの「教育再生会議」は百家争鳴のようだ。それはそうだろう。教育論は、専門家でなくても、一人一人が一家言持っていると言われている。誰もが経験してきたことだし、同じ環境下に置かれていたとしても、受けた影響は全然違うもんな。小学校で一緒に遊んでいた連中が、中学に入ってから何人グレていったことか。僕には僕なりの思いがあるように、そいつらにはそいつらなりの、ガッコーに対する思いはあるだろう。

「教育再生」とは、何を「再生」するのか?昔はそんなに良かったか?僕が中学生だった25年前には、既に授業は成り立っていなかったぞ、というツッコミは今は置いておこう。それよりも気になることは、「教育」を論じる際に、対象が「生徒に対する学校教育の在り方」にのみ偏っていないかということだ。主体は、環境と不可分のセットだ。学校は生徒にとっての大きな環境であることに異論はないが、その学校をも取り巻く環境にまで目を配らずして「再生」も何もないだろう。
そもそも、僕たち大人が、ガッコーに行っていた頃に抱いていたはずの夢や希望、悲しさや優しさを今でも持ち続けているか?「先生が」「親が」「計算が」とか言うのも結構だが、この辺りがすっかり擦り切れていることにも目を向けまいか。

。。。もっと軽い話を書くつもりだったのに、書いてるうちに重くなってきたぞ。どうする。ふむ、ちょうどタイムアップだ。またいつ書くかはわからんが、「続く」。


October 18, 2006

オカメはオウム

モモチン
うちのトップアイドル、モモチン近影。
オカメはオウムだ。と言っても宗教の話ではない(あたりまえ)。
オカメインコの一番の特徴は、ほっぺたの日の丸と立派なトサカだ。こうして見ると、オカメは「インコ」ではなく「オウム」だということがよくわかる。クチバシはヒマワリの種を噛み割って食べるのにちょうどいい形をしている。噛まれたら痛そうだ。でも大丈夫。ほとんど甘噛みしかしないから。

カメチ
こちらはカメチ。「オカメチン」が本名なのだが、短縮形で定着している。ま、本名にしても短縮形にしても、ヒネリもオチもない名前で申し訳ない(誰に謝っているのか)。謝りついでに、名前が「チン」ばかりですみません。カメチはモモチンの実の父親だ。どういうわけか、こんな顔して(失礼)、メスオカメにモテモテなのだ。オカメのトサカは、本来、このカメチのようにクルリンと整っている。モモチンだけは、いつもボサボサ。突っ張っているのだ。オカメ的にはどうなのか知らないが、俺はなかなかカッコいいと思うぞ。

オカメは小松菜が大好物。カメチのクチバシが青いのは小松菜を食べた後だからだ。そういえば、土曜日に植えた小松菜が、今朝、もう芽を出していた。

October 13, 2006

さらば!偽装請負

「偽装請負」の問題。たぶん、一番わかりやすい「派遣」と「請負」との違いは指揮系統だろう。「派遣」の場合はお客さんに指揮権があり、「請負」は受託した側が指揮権を持つ。でもって、指揮権を持つ方が業務管理の義務を負う。

ソフト屋業界では所謂「偽装請負」が常態化している、と言われている。まあ、少なくとも「グレー」な現場が多いのは事実だろう。「偽装請負」で馬車馬のように働かされてくたびれ果てていくエンジニアもいると思う。一方、「偽装請負」と言われそうな形を作りながら、やっとこさプロジェクトを構成し、なんとか進めているところもある。

もちろん「遵法」は大前提。当然。でも、労働者も含めて「ウィンウィン」になれる「偽装請負風」な仕事形態だってあるかもしれない。
そこで、まずは現行法に則る。きっと、無駄としか思えないコストがあれこれと発生するだろう。そうしたら、いいところは残し、改めるべきは改めつつブラッシュアップしていく。そんなアジャイルな法律があってもよい気がするのだが。

「アジャイル」ってわからん人もいるよね。業界用語みたいなもんだし。安倍さんも使った流行の言葉で言えば「筋肉質」って感じか(ホンマに?)。まあ、ボディービルみたいに「とにかく付いてりゃいい」ってのは別にして、本来、「筋肉」には明確な指向性がある。ならば、「目的に向かって無駄をそぎ落とす」という意味で、「アジャイル=筋肉質」というヤケクソな定義は、当たらずも遠からずだろう。ちなみに、原義は「agile(俊敏な)」。


October 11, 2006

ウィンドミルで初登板

いやあ本当によく寝た。日曜日、夜の7時にちょっと横になって、目が覚めたら月曜の朝9時だった。14時間!かつて、徹夜明けでもこんなに寝た憶えはないなあ。
その日曜日にはソフトボールの大会があった。朝の6時に起きて仕度しなければならず、前の晩、早めに寝床についたのだが、階下の住民の談笑している声が夜中の二時まで響いて寝付けない。それほどの大声でもなかったのだが(隣にいた連れ合いはスヤスヤ寝てたし)、ああいう声って、一度耳に付き始めると離れなくてキツいのだなあ。まあ、三連休の初日だったし、集合住宅の宿命だ。「お互い様」であきらめる。

そんな寝不足で臨んだ大会。我がチームの大エースが海外勤務のため再来年まで帰ってこず、二番手投手が登板。序盤で0対6とリードされたところで、監督がスッと立ち上がり、投手交代。え?俺?ほんま?ぃやっほー。ついに巡ってきた初登板。野球では経験があるけど、ソフトボールのピッチャーは初体験だ。
野球とソフトはとても似ている競技だが、全然違うことが一つある。それがピッチャー。ウィンドミル投法といって、腕を風車のように回して投げる。これは何年野球をやっていても身に付かない技術だ。だって、野球では必要ないもの。
それでも、そこは野球小僧の意地と興味。「ウィンドミルをマスターしたい」一心で、大エースが海外へ旅立ってからこの一年、コツコツと、独り、試行錯誤しながら壁に向かって投げてきたのだ。そして果たした初登板。練習試合でも投げたことがなく、いきなり公式戦でのデビューだ(なにはともあれ、監督さんありがとう)。
結果は、案外打ち損じてくれて、そこそこ無難に抑えてしまった。あらま、どうしましょう。自信ついちゃったよ。試合はそのまま負けちゃったけど。
スピード眼(ガン)で90キロ前後のストレートに、カーブ、チェンジアップとのコンビネーションでの勝負。実はシュートとドロップも隠し持っているのだが、使わなかった(ということにしておこう)。球速はプラス10キロは欲しいところだけれども、それは今後の課題として、今、手持ちのボールでできるだけの勝負するのも楽しさの一つだ。

野球歴35年で、ピッチャー、キャッチャー、内外野と、全ポジションを経験したけど、自分に一番合っていて楽しいのは、なんと言っても「キャッチャー」。但し、好投手の女房役に限るね。自分が投げた方が勝てると思いながらやるキャッチャーほどツラいポジションはない。そういう場面でピッチャーをやらない理由は、「自分がピッチャーをやったら、それを受けるキャッチャーがいない」からだ。

茶利氏のコメントに乗って言うと、僕は、誰もピッチャーをやりたがらない状況では、「俺やるわ」と引き受けるが、「ピッチャーやりたーい」と名乗り出る奴がいれば、喜んでキャッチャーをやるタイプだ。そいつの持っている「いいボール」を引き出すべく、あれこれと頭をフルに使ってリードする(キャッチャーの仕事は球種の指示だけではないのだぞ)。そして、狙い通りに打ち取った時の快感たるや。野球の楽しさは、キャッチャーをやらんとわからんな。但し、何度でも言うが「好投手の女房役」に限る。
でもって、もし、自分がピッチャーをやるなら、好捕手に受けてもらいたい。野球てのは、一人では勝てない、持ちつ持たれつの競技なのだなあ。などと考えながら昏々と眠り続けた14時間なのだった。

October 04, 2006

ガンバレ貧乏クジ

ソフトウェア作成の工程は、上流から下流まで、いろんな現場で、あらかた経験してきた。経験上、一番報われないのは「テスト担当」だろうか。たまにテストを担当すると、あらためてそう思う。
テスト担当と言ってもいろいろで、決められたテスト仕様に従って機械的にテストをする場合もあるが、既存のプログラムを解読してテストの仕様を策定し、テストプログラムを作り、実行まで(場合によってはデバッグまで)やるという、かなりヘビーで、それなりの力量が要求される場合もある。どちらにしろ、テスト担当者は努力が報われないことが多い。なぜか。

それは、テスト担当者の使命は「ダメ出し」だからだ。テストの対象となっているプログラムの穴を見つけ、それを作った人に、「このプログラムはイケてません」「あなたは詰めが甘いです」と伝えなければいけない。プログラム作成者にとっては、できれば聞きたくないイヤな報告だ。だから、大概ムッとされる。「一体どんなテストをしたのか」と詰問調で聞き返されることもある。さも「テストのやり方が悪いからエラーになったんだろ?」と言わんばかり。「自分が気付かなかった問題を見つけてくれてありがとう」と感謝されこそすれ、恨まれたり嫌味を言われる筋合いのものではないのだけれども。
かと言って、嫌な顔をされないように適当にテストをして流しておくと、後で問題が出た時に「ちゃんとテストしたのか」ということになる。前門の虎、後門の狼。進退谷まったと言えば大袈裟だけれども、腹を括ってダメ出しをするしかない。そんな悲壮感に、こんな言葉がとどめを刺す。「今はそこまでのテストを要求していない」。はぁ。。。そんなら自分でやれよ。

プログラムを書く作業は、8割方楽しいものだ。何も無いところからどんどん動くものができていく。モノ作りの喜びを味わえる。「作業が進んでいる」という手応えもある。ところが、残りの2割がクセモノ。完成度を上げるための詰めの作業は、とにかく面倒くさい。仕事が進んでいる実感もない。だから、その「楽しい8割」だけをやりたがる輩がいる。サッカーで言えばフォワードしかやりたがらない奴。料理で言えば、後片付けをしない「料理好き」みたいなもんだ。そしてそういうのに限って、「ほとんどが自分の成果」だと思っていたりする。

いや、まあいいのだ。テストという作業をすることができる人間は、縁の下の力持ちであることに誇りを持てる人間だ。「菊作り、菊観る時は陰の人」というやつだな。俺はそういう人間になるぞ。テストを担当することになって貧乏くじを引いてしまった、なんて意地でも思ってやるもんか。ま、そんなことを思ってしまっているところが、まだまだ青い証拠なのだが。

ともあれ、自分がテストをしてもらう立場になったら、「問題をあぶりだしてくれてありがとう」と心から感謝できるような人間でありたい。人の振り見て我が振り直せ、だ。