November 30, 2006

親の背中

11/30は母親の78歳の誕生日だ。父親は僕が赤ん坊の時に病気で死んだから、僕は父親の記憶を何も持っていない。「子供は親の背中を見て育つ」と言うが、僕にとっての親の背中は、ただひたすらに母親のそれだ。母親については、甘えた記憶やキツく叱られた記憶、人生の分岐点で悩んでいた時に方向性を示してくれた記憶など、思い出せることがいくつもある。
時代が時代だけに、福井のど田舎の出だった母親の最終学歴は尋常小学校卒だ。それでも、父親と母親の二つの役割をこなして育ててくれた知恵は大したものだったのだなあと、今、あらためて思う。
自分の立ち位置を決める場合に、いつも、今居る場のバランスを取るような位置、つまりは少数派に身を置こうとするのは、一人二役の親の背中を見続けて生きてきたからなのかもしれない。
人に歴史あり。人は生まれてからこの方、いろんな人と出会い、いろんな思いを積み重ねて今に至っている。僕は、これからも、いろんな人と出会うだろう。「この人にも、この人なりに積み重ねてきた歴史がある」ということを決して忘れないで、その人と接していきたい。

November 20, 2006

難儀歓迎

モノの本によれば、「脳は怠け者である」らしい。いやいやでも、学校や会社に通うということは脳を活性化させるためには有効で、そういう習慣がなければ、どんどん原始的な脳力しか働かなくなるのだとか。

折しも、「難儀でござる」という歴史物の短編集を読んでいた。内容は伏せよう。小難しい問題に直面した男たちの話だ。これらの話ほどではないにせよ、日常、「難儀やなあ」「面倒やなあ」と思うことは珍しくない。できれば避けたいのだけれども、見方を変えれば脳を働かせる絶好の機会だとも言える。

幕末の志士たちの中では高杉晋作が好きだ。高杉晋作の逸話に「『困った』とは決して言わなかった」というのがある。本当か嘘かはさておき、この逸話を聞いて以来、「困った」と弱音を吐いて逃げるものかと意地を張って生きてきた(つもり)。難儀に直面したら、「この問題は、今後どういう展開で進むのだろう」と、我がことながら、半分は映画や小説を楽しむようにその難儀を受け止めていることが少なくない。でもそれは、何もせずに傍観して成り行きに身を任せるというのではなく、(当事者であるから当然なのだけれども)自分もその映画の登場人物の一人として積極的に関わりながら、人間学とでも言えるモノを勉強させてもらおうとの意識だ。

最近では、ウィンドミルをマスターしようとする(これがなかなかママならずにイライラするのだ)とか、ヘタクソでワガママな素人集団を束ねて経験者揃いのチームに食らいつこう(これがどれだけ無謀な話か一晩酒を飲みながら是非聞いてほしいくらいだ)と奮闘するとか。どれもこれもソフトボールの話ばかりであるところを見ると、どうも、負けても負けても僕が野球とかソフトボールを続けている理由は、本能的に「難儀」にこそ快感を覚えているからなのかもしれない。勝てないから続ける。思うようにいかないからやめられない。

今、一番の目標は、その素人集団で超強豪チームに勝ってしまって、みんなで勝利の美酒に酔うことだ。いつのことやらしれないし、もし勝っちゃったら自分の意識はどうなるのだろう。それにもとても興味がある。

November 16, 2006

読み・書き・算盤・検索能力

我が家のプランタに、勝手に生えてきた木は、どうも「フサフジウツギ」という名前の木であるらしい。我が家の小さな植物図鑑には載っていなかったので、インターネットで調べた。
なんでもかんでもネットで調べるご時世だが、もし使い慣れた辞書や図鑑などがあれば、場合によってはそっちで調べる方がよほど速い。今回の木も、手持ちの図鑑に載っていれば、パラパラとページをめくっているうちに発見できたろうと思う。

なぜ図鑑の方が速いかと言えば、それは、手持ちの情報が「画像」だけだったからだ。植物に詳しい人がいれば、「こんな花が咲いてるんだけど」と、写真を見せることができるが、インターネットで画像情報を基に「似ている画像」を検索するようなサービスにはまだお目にかかっていない。「そんなん無理やろ」と思っているうちにGoogleなんかがやってしまいそうな気はするけど(「そういうサービスなら、とっくにあるで」とご存知の方がいらっしゃれば教えてください)。

で、残念ながら植物博士もいず、手元の図鑑にも載っていず、てな状況になっては、手段は二つに一つ。探偵ナイトスクープに、というのは冗談で、(1)買うなり図書館に行くなりして、立派な植物図鑑で調べる、(2)インターネットで調べる。まあ現代なら、まずは(2)やろ。ということでネット検索をすることにした。
ネット検索は、適切な言葉を選べるかどうかが生命線。「紫色の花」でやってみる。ここで、「薄紫」とか「淡い紫」などと、条件を絞るべきかどうかは、小事ではないのだな。それはそれとして、検索結果はたくさん出る(予想通り)。とりあえず検索結果上位のページをいくつか開けてみると、あるわあるわ「紫色の花」。調べている目的を忘れて、しばしいろんな<紫色の花>の写真を眺める。まるで、引越しの箱詰めをしていると、奥の方から出てきた昔の本やら雑誌やらを次々と開いては読んでしまうようなものだ。

その後、どうやって絞り込んでいったのかは忘れてしまったけれども、大学の入学試験に「検索」という科目があってもよいかも、と思ったのだ。見たこともない写真を見せて、「これは何か」とだけ問うている問題。インターネットで検索ができるだけのパソコンを貸与して調べさせる。1時間で20問もあればちょうどよさそうだ。

November 06, 2006

あなたのお名前、なんてーの?

一年ほど前だったか、桔梗の脇に生えてきた草があった。冬が過ぎ、春になるとニョキニョキと伸び、段々「木」になっていく。そして、1mくらいになったろうか。最初は葉っぱの形から、桔梗の株だと思っていたのだけど、全然違う花が咲いた。それがこれ。
あなた誰?
あなた誰?植えた覚えもないし、見たこともない花。ハンディタイプの草花図鑑にも載っていない。ネットで調べて、たぶんこれかなあという花を見つけたのだけど、わかる人います?

November 01, 2006

ゆとりの時間は使えない

高校、特に受験生を惑わしている必修漏れ。要は、「進学校」が環境の変化に対応し切れずに振り回されているということだ。「ゆとり」だの、週休二日だの、学習指導要領だの、大学側の選択基準の多様化だの。旧友も高校教師をやっているが、現場のドタバタを想像するにつけ、痛々しいとしか今は言えない。
文科省も、地方に、または高校に、任せるなら任せるで、教える内容まで任せればよいものを、中途半端に縛っておいて、「あとはご自由にどうぞ」ではやっぱり無責任だろう。今に始まったことではなく、進学校が大学予備校となり、非進学校が「高校卒業証書授与」校となって(おそらく)久しい。つまりは「本当の高校」なんてもはや幻想でしかないのだ。

必修を受講していないコーコーセーは、補習を甘んじて受けなさいな。そんなの議論するのもバカバカしいくらい当たり前の話だ。出席日数ギリギリまで休む。補習中に内職をする。こっそり(?)居眠りをする。そういった<工夫>をしながら、補習を甘んじて受けなさい。「出席すること」に意義があるのだぞ。で、もしも先生の話が面白かったりなんかしたら、望外の幸運。テストなんざ関係なしに、「へええ」と唸りながら、面白がって授業を聞けばいい。卒業しちゃったら、その先生の授業、受けたくても受けられないよ。こういうのは卒業してからわかるものだけれど。

報道によれば、かわいそうなのは受験生なんだって?アホくさ。俺は、正規の授業に出席しながら外の景色をボーっと眺めたり、堂々と居眠りをしたり、授業とは全然関係のない小説を読んでいたりして、さんざ怒られたもんだ。だって、世界史以外の授業はつまらんかったからな。でも世界史は赤点やった。この辺が<人生の綾>というやつなのだ。ようわからんが。

ま、高校へは野球をしに行っていたようなもんだし、「大学に行くかどうかは卒業してから考える」とも決めてた僕には、「今、大学に行きたい」と必死になっている現役の受験生に届く言葉を、何も持ち合わせていないことだけは断言できるな(イバってどうする)。