March 26, 2007

Jazzで脳トレ

ゲーム機といえば、20年以上前、浪人中にバイトをして買った赤い「初代ファミコン」以来、すっかりご無沙汰しているのだが、近頃は「大人」が買っていると聞いた。目的は「脳トレ」なんだとか。

あんまりやる気しないなあ。脳トレ。その「ゲーム機による脳トレ」をやったことがないから、それ自体は否定しないが、百歩譲って、脳に何らかの良い効果があるとしても、そんなのに時間を使うくらいなら、やりたいことが山のようにある。

「音楽、特にJazzを<徹底的に>聴く」というのもその一つだ。

Jazzにハマってからの歴史はとても浅く、せいぜいこの5年くらいだろうか。だから、教養的には全然詳しくないことは断っておく。詳しくはないのだが、Jazzの恐いところはわかるぞ。一旦ハマったが最後、底なしに「聴きたくなる」ところだ。次から次へと聴きたくなる気持ちは変わらないまま、「聴き方」は随分と変わった。最初はノリだけで聴いていた。段々、個々の楽器の音が気になるようになってきて、今では、聴こえてくるあらゆる音を、「全部受け止めてやる〜!」という感覚だ。耳ではなく、脳を曝しているというイメージか。

ここから先は、科学的根拠などもちろんなく、あくまでも自分流の経験則に過ぎないから、話半分に読んでほしいのだけれども、「脳を、聴こえてくる音に曝して、聴こえてくるままに受け止めるように聴く」と、あら不思議、頭が良くなるのだ。

ここで肝心なポイントは、「音楽を理解しよう」などといったマジメな気持ちで聴かないこと。音を浴びながら、その刺激を受けた脳が、勝手に想起するままに任せる、てのが秘訣かな。脳というのは不思議なもので、邪念を排して刺激に委ねると、それに応じて、好き勝手に反応する。自分の脳の想起を面白がっている自分がいるのだ。俺の脳は俺のモノなのか?

ともあれ、そうやって小一時間「聴いた」後で、活字を眺めたりしてみると、読み進むスピードというか、眼に飛び込んでくる情報量がまるで違ったりすることに驚くのだな。だから「頭が良くなった」と感じるわけだ。

今日、脳を預けたのは、Norah Jones の「Come Away with Me」。

これはJazzなんか?という議論はおいといて、ヴォーカルの歌詞も「聴こう」とはせずに(「英語だからわからん」と開き直るのがいい)、一つの音として受け止める。今日の私は、10曲目あたりで何かがハジけて、以後、「脳内万華鏡」状態。こうなると「とても良いアルバム」に位置付けられて、離せなくなるのだ。

March 22, 2007

ミッキー!

東京ディズニーランドへは行ったことがなかった。TDLの開園は1983年4月15日だそうだから、高校2年の春だ。一度は行っているはずの世代だろうに、24年間、行く機会を持たなかったのは、怠惰故か、それとも混雑嫌いのなせる業か。

連れ合いに「一度は必ず連れて行く」と言われながらも、「他にもいろいろ行きたいところあるし〜」と言を左右にして逃げていたのだが、あちらの執念が実ったか、ペアチケットが懸賞で手に入ってしまった。

そんなこんなで、初めて東京ディズニーランドに行ってきた。

土曜日のディズニーランド。いやー、予想以上の混雑。人いきれ。まともに歩くのも困難。右も左も長蛇の列。元来、遊園地は(とっても)好きな方だから、あれこれ入ってみたい気持ちはあるんだけれども、2時間も並べる自信はないぞ。そんな泣き言を、連れ合いは最初からお見通しで、「ツアーガイド」を申し込み、お昼過ぎから、ガイドさんに案内してもらうことになった。

園内をくまなく一周して、最後に来ました。えーと、なんだっけ。名前は忘れたけれども、「ミッキーの家」。いたよ。ミッキー。時間にしてほんの1、2分だったと思うけど、ミッキーって、凄いね。年甲斐も無く、ほんわか〜っと優しい気持ちになっちゃって、自然にポケーっと笑顔になってしまったよ。まいったなー。

ミッキー!

今まで、東京ディズニーランドの超人気に嫉妬して、「男は黙ってパルケエスパーニャ!」と意地を張ってきたのだけれども、ダメダメ。全然勝負になってない。実際に行ってみて、なんで超人気なのか少しわかった。要は「気合」だな、「気合」。ディズニーランドはとことん、徹底的に「ディズニーランド」であり、「ミッキーの世界」なんやね。「ウソ」とか「作りモン」なんて疾うに超越している「リアルな物語」。うーむ、なんてステキなアンビバレンツだろう。

それに引き換え、パルケの中途半端なこと。なーにが「スペイン村」やねんな。あれでは、せいぜい「スペイン風ニッポン」。働いている日本人は付け鼻をする。適当でもいいからスペイン語を公用語にする。そして「ニッポン語も少しワカリマース」と言う。それくらい、「本気でここをスペインにするんや」と気合を入れることだな。

うーむ、またミッキーに会いたくなりそうな自分がちとコワい。

March 15, 2007

ありがとうクレイジー

連れ合いが懸賞でミュージカルのチケットを当てたので、ちょっくら行ってきた。劇団四季の「クレイジー・フォー・ユー」。場所は京都駅ビルにある京都劇場。知らないミュージカルだったが、歌って踊って、皆ハッピーな楽しい芝居だった。

出演者には失礼なのだが、観劇に没頭できず、違うことを考えていた。年齢のことだ。この人たちも、きっと自分の年齢と闘っているのではないか。

僕の仕事を一言で言うとすれば、やはり「SE」が一番適当だろう。実際、「オブジェクト指向が得意な腕のいいデジタル工務店」を商売にしているし。しかし、SEの世界では、年齢による限界説が陰に陽に語られている。この業界に飛び込んだ15年ほど前は、「30歳が限界」という説だった。今では少し伸びたようだが、概ね「35歳」といったところか。石油の埋蔵量ほどは伸びない。では、そもそも、何をもって「限界」としているのか。

ソフトウェア業界は全体的に若いこともあって、年齢構成が下にいくほど広がったピラミッド型をしている。あるプロジェクトの典型的な構成は、一人のプロジェクトマネージャの下に数人のチームリーダーがおり、それぞれのチームに数名の開発部隊メンバーがいる、というものだ。そして、開発部隊の中から次のチームリーダーが生まれ、チームリーダーの中から次のプロジェクトマネージャが輩出される。早い話がサル山のボス猿争い。一般的には上に行くほど報酬も良い。そして上がれない負け犬ならぬ「負けSE」たちは、次から次へと参入してくる若い連中に囲まれながら開発部隊に居続けるか、辞めてしまうかの選択を迫られる。

ソフトウェアを作る仕事は、頭も使えば気も使う。身も心も健康でないとなかなか続かない。せっかく身に付けた技術が数年で陳腐になったりする。だから、「仕事や勉強すること自体に疲れてしまう」のが「限界」の大きな要因であることは間違いない。でも、その「疲れ」を促進する要因には、上の世代の良いサンプルが少ないことがあると思う。開発部隊に居続けて「この先、やっていけるか」と不安がよぎる時、周囲を見渡して、自分より年上の人が生き生きとそこに居てくれるだけで勇気付けられることってあると思う。年齢を言い訳にしにくくなることってあると思う。そしてそれは、とても良いことだと思う。

僕が現場にこだわりたいのは、そんな理由だ。人から「クレイジー」と言われるほどに、現役の開発部隊でありたいと思う。

職種は違うけれども、年齢と闘っているのはSEだけではない。飛び跳ねながら、踊りながら、スゴイ声量で歌うミュージカル俳優たち。芝居から弾け出てくる、そのパッションが素晴らしい。観に来て良かった。


March 06, 2007

白襟限定解除

直訳するとこんなところか。元の言葉は"white collar exemption"。今は、残業代が支払われないことばかりが大きく取り上げられていて、あたかも「過労促進法」のような扱いだ。ちょっと冷静になって整理してみるか。

「きまり」というものは、そもそも、対立が存在するから必要とされる。「白襟限定解除」の対立構造は、「労使」。つまり「働く側」と「働いてもらう側」。

また、「きまり」の生命線は「バランス感覚」。「白襟」のアンバランスは絶望的だ。それはそうだろう。今はまだ「働いてもらう側」からの提案が出されただけなのだから。

経団連という「経営者組合」が、はっきりと経営者の立ち位置から一方的な要求を示した今、労働者はどう立ち向かうべきか。「残業代を払わずに過労死させるつもりか」とは、あたかも共産党の得意そうな主張だが、もうそんな闘いではダメなんだよ。相手は反発を承知の上でカードを切ってきたのだ。ブラッシングボールを投げてきたピッチャーに、「そんなボール打てるか」と怒るのであれば、打席に立たなければいい。ここは勝負どころだと、正面から受けて立つのが直感的な勝負観だ。

労働者の「限定解除」なのだぞ。一方的に悪い話ではないはずだ。「残業代を払わない」ことと引き換えに、今まで労働者を縛ってきた制約を、今解かずして、いつほどく。

労働の価値が「時間ではなく成果だ」というならば、副業、昼寝、ズル休みは当然アリだろう。「有給休暇」なんてシャラクサイ<きまり>からも解放だ。だって「成果主義」なのだから。他にも考えていけばいろいろあるだろう。かくして、「ほんまに成果主義でええんやな」と、ボールを一度打ち返す。そして、二打席目の勝負だ。

限定解除されるまでもなく、世の中に「成果主義」は既に広まっている。しかし、おそらく、そのほとんどはうまくいっていない。なぜか。端的に言えば、評価をする側の評価する言葉に力がないからだ。もし、既に成果主義が機能しているのならば、わざわざお上に頼んで、お上主導で「成果主義」を推進する必要は無い。全く無い。うまくいっていないから、「法律」という名の印籠を必要とするのだ。
(たぶん続く)