September 15, 2006

今さら「見える化」-2

学生時代、席を置いていた研究室に「サウンドスケープ」を研究する一派がいた。「音風景」とでも訳せばいいのかな。自分が身を置いている「今ここ」の環境で、「音」に対して意識的になろうという運動だと理解している。「今ここ」と書いたのは、音といっても、騒音の指標のように絶対基準で測定することのできる「音」ではなく、個々人に意味を与えるモノとしての「音」であることを強調したかったから。

そのサウンドスケープ研究のお手伝いとして、公園でお絵描きをしたことがある。芝生に座ったりベンチに腰掛けたりしながら、耳を澄ませて聴こえてきた音を画用紙に「スケッチする」のだ。私はたまにヘタなギターを弾くこともあるが、音楽は譜面を読むことによって演奏することができる。音のスケッチは、譜面ではないけれども、「音」を紙に記録する作業だ。スケッチの仕方は特に定型化されていなかったから、絵心の有る無しは置いといて、自分の感じ方を表現することができる。例えば、空中の同じところでほとんど静止しながら鳴き続けるヒバリの声が聴こえてきたら、ガンバレガンバレと笑顔で応援しながら、黄色と青色を使って羽ばたいている小鳥の絵を頭の上に描く。カーステレオのベースの音をズンズン響かせて走っていくクルマが通れば、赤色でカミナリ付きのクルマを描き、「うっせーばーか」などと落書きしてしまう。

今、9月も半ば。夜は涼しく過ごしやすくなってきた。先日、仕事の帰り道、「リーリーリーリー」と鳴く虫の音に、「音はすっかり秋やなあ」と感じていた私の横を、「虫、うるせーな」と不快そうな声で言いながら歩いて行ったおっちゃんがいた。人間は、ヒバリや秋の夜の虫の鳴き声で、優しい気持ちにもなれれば、「うるさい」と感じることもできる。精神状態に因るんだろう。ひところ話題になっていた「騒音オバサン」の「とっと〜と、引っ越〜し♪」だって、シュールなラップだと感じる人がいるかもしれない。まあ、実際にアレを近くでやられたら「かなわんなあ」としか思わないだろうが。

ともあれ、音をスケッチすることによって、単に録音するだけでは得られない情報を「目にする」ことができる。これだって「見える化」の一つだ。

ちなみに、冒頭で「一派」と書いたが、別に研究室で派閥抗争が激しかったわけではないので念のため。でも、たしかに主流ではなかったな。
(たぶん、断続的に続く)


September 13, 2006

今さら「見える化」-1

ここ2年ほどになるか。ソフトウェア業界、特にオブジェクト指向を商売にしている人たちにとってのキーワードというかハヤリ言葉が「見える化」。同業者以外にとっては「見える化?なにそれ」かもしれない。簡単に言えば、問題点や課題が浮き彫りになるように、なんでも目に付く形にしてみようという試みのことだ。今日やらなければいけないことをポストイットに書いて机に貼っておく。これも立派な「見える化」だ。こうすることで「うげ、今日中にこんなにたくさんやらなあかんことがある」という事実を突きつけられる。もちろん、ポストイットに書くことで備忘にもなるが、「見える化」のポイントは、貼り付けられたポストイットの数を見て、「こんなにたくさん」と感じることだ。

この「見える化」がオブジェクト指向の世界から広まったのは、オブジェクト指向が「モデリング」を武器にしているからだ。モデリングというと、なんかムツカシイ感じを受けるかもしれないが、ひとまずは、「目下の課題にいろんな角度から光を当ててみようとすること」とでも言っておく。
例えば、オブジェクト指向屋は、ホワイトボードとか紙があれば、何を作りたいのか普通に作文をしたり、時間を止めたその瞬間の構造を絵にしてみたり、動きを紙芝居のように描いてみたりといったことばかりやっている。

モデリングの目的は、まず「理解すること」。そして「その理解をみんなで共有すること」。で、共有するには同じルールでモデリングすることが必須だということで、パイオニアたちは、頑張ってルールを作り、そのルールを啓蒙するべく本を書き、トレーニングコースを設け(それでお金も儲け)てきた。そして、ようやく、「標準化」と言えるくらい裾野が広がってきたかな、やれやれ、と思いきや、次に襲ってきた問題が「標準化」ならぬ「形骸化」。いつ何をどこまでモデリングすればよいかが判らないまま「とにかくモデリング」しようとするものだから、モデリングの成果物と徒労感ばかりが現場にウズタカク積まれるようになってしまった。

そうなると、宗教の歴史と同じだな。この事態をマズイと感じていた人たちが原点回帰運動を始める。その一つが「見える化」運動だ。と理解して、まあ大きくは外していないだろう。
(たぶん続く)